人生は「遠足」だ

記事の著者:龍平矢野
公開日:2026年8月8日
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こんにちは。矢野です。

最近はすっかり夜に一人でニルドーシュを嗜むのが習慣になっています。
一日の数十分ですがこの時間が非常に自分のスイッチをオフにしてくれるいい時間になっているんです。そもそも日中はやはり視覚的にも情報が多いし、スマホを見てしまったり、仕事のことを考えてしまったり、忙しなくしてることが多い。そんな中で夜は視覚から入ってくる情報が少なく、かつニルドーシュを吸うという作業が加わることで、何もしてないわけではなくなるのでスマホからも解放される。
そんな中星だったり月だったり見てるとなんとなく普段は考えないことをゆっくり考えたりします。昼は暑いけど夜は涼しいなぁとかそんなどうでもいいことから、人生まだまだ長いけどこのままでいいのかなぁなんてちょっと深いことまで。

昨日もそんな中で考えていたことが二つほどあって。
一つ目は「先入観」の話。

たまに高校生以前の知り合いに会うと「起業なんてするタイプじゃなかったよな?」と言われることも多いです。確かに起業なんて考えたこともなかったし、成り行きで起業したので合っているといえば合ってるのですが、そんなタイプじゃなかったかというと、昔から本質的な性格は変わっていないので、そんなタイプだったんだと思います。
昔周りからどう見えていて、今どう見えているのか、それは分かりませんがたまに会った人に言われがちな「変わった」というニュアンスの言葉。言われた側はちょっと棘を感じることの方が多いと思います。
そもそも昔なんて特に僕は本当の自分の半分も周囲には見せていなかったと思います。(それには色んな理由がありますがここでははしょります)

にしても変わっていないところもあるし、変わったところもあるし、今も変わり続けている。
変わっていくことの方が僕は自然だと思いますが、変わったことをちょっと嫌な感じで言ってくる人というのは総じて「変わっていない人」です。
良くも悪くも変化をしてきた人と話していると、いいね!とか面白いね!と肯定的な話にしかならないのです。
まあそれは置いといて。

美しい過去というのは時間が経つにつれさらに美化されていくというのは自明のことわりですが、その逆も然りで。
僕にも先入観がもたらした感動と反省を同時にしたことがあるのですが。
学生当時コミュケーションが下手で意思疎通、主に言葉にして伝えるということが苦手な友達がいて、ちょっと強く話すと言葉を詰まらせて何も言わずに拗ねて怒ってる奴でした。
それから10年ぶりにくらいに西陣店ができた時、コーヒーが好きだということでひょっこり店に遊びにきてくれたのですが、ある意味もう大人なので当たり前とはいえ、すっかり普通に饒舌に話すようになっていてびっくりしました。でも話してたらやっぱり性格自体は変わらず優しく穏やかなやつで。さらにその場にたまたま居合わせた初対面のうちの常連さんとも普通に愛想よく会話をしていて、偉そうながら人は成長するんだと感動したのと、同時に当時の印象を引きずっていたことをすごく反省しました。
人は変わらないし、変わるんですね。
もし過去の印象や記憶に縛られて、現在の行動や選択肢を狭めている人がいたとしたら是非まっさらにしてみてください。きっと思いもよらない発見があるはずです。

そしてもう一つ。
僕がここ最近ずっと考えているテーマであった
「人はいずれ死ぬことが分かっているのなぜ自分を磨いたり、向き合ったりしようとするのだろうか」。
これは人間誰しもが似たようなことを一度や二度は考えたことがある永遠の命題の一つではないでしょうか。
よく「人生は壮大な暇つぶし」という風に言いますし、僕も割りその考え派だったんですが、ここ最近はどこかそれが無責任な感じがしてしっくりこないなぁと思っていました。
それでずっと考えてたんですが、

人生は「遠足」に似ているのかもしれないなと。

遠足も最後はお家に帰ってきます。でも「じゃあずっとお家に居ればいい」とはならないですよね。遠足は遠足としてしっかり楽しむということ。
そして帰るまでが遠足です。帰ってきてからこんなことがあったあんなことがあったと思い返す時間、またそれを家族や誰かに話す時間。それこそ遠足の醍醐味だったりします。

人生も最後にはこんなことやあんなことがあったなと思い返し、口角上げて死ねたら最高ですよね。

僕はこれが一つの答えではないかと昨日スッキリしました。

みなさんいかがでしょうか?

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