「祈りのアナーキー」を読んで

記事の著者:龍平矢野
公開日:2026年10月29日
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こんにちは。矢野です。

最近はLaughterの店頭に立たない日に仕事があることが多いので毎日割と忙しなく過ごしていますが、体調はいい感じです。世間的には風邪が流行っているようで、うちの兄家族は延々風邪をひいているらしい。笑
もう笑けるくらい治ったと思ったらひいて、治ったと思ったらひいてを家族みんなで繰り返しています。まあ子供がちょうど幼稚園に通い始めたみたいでしょうがないところもあるようですが、にしてもうつりすぎだろと思うくらい笑
みなさまお気をつけくださいね。

一方で僕は悠々自適におひとり様生活を送っております。作業が溜まってる時なんかは日付変わるくらいまでうだうだパソコンと格闘したりしてますが、基本的には日中以外は余裕がありますので、読書をしたり、絵を描いたりして過ごしています。

読書としていえばこの前家の近所を散歩していた時にふと入った本屋さんで購入した、「祈りのアナーキー」という本がとても面白かったです。
シモーヌ・ヴェイユというフランスの有名な思想家の思想をもとに日本人の著者が「祈り」や「霊性」といった神学に基づいた人間や社会の在り方のようなものを説いている本になるのですが、著者自体がキリスト教徒でもあり、神学に基づいているという点からもキリスト教的な観点からの論考が多いのですが、割と仏教とかでも同じこと言ってたなぁみたいな内容が多く、さらに僕はその直前までサピエンス全史やホモ・デウスと言った超客観的な人類史みたいなものを読んでいたのでこの流れが非常に面白かったです。

一見神や祈りといった霊的行為や主体については、ニーチェが神は死んだといったように、科学革命以降には存在しないものであるというのが一般的な考えかと思います。ぼくも一神教のようないわゆる神様とされるものが実際に存在しているという考えには懐疑的であってだからこそ、そんな現代においてもいまだに多くの人々が信仰する宗教や神学というものに非常に興味を持っているわけです。

というのも神が死んでから信仰の対象は人間へと遷移してきました。ヒューマニズム、人間至上主義というやつですね。「私らしく生きることこそ至上命題である」みたいな考え方は人間至上主義のコアの部分です。
地球上の生物のヒエラルキーでも頂点に君臨し、今や人間がいかに豊かに生きるかということが一番大事であるということを疑う人はいません。ただそれと同時に蒸気機関が発明された産業革命以降、一気に工業化の波がやってきて、そこに付随し、さまざまなものが科学的に証明されるようになっていきました。
これらの状況に一番フィットしたのが民主主義であり、資本主義だったわけです。
つまりこれらのイデオロギーは共産主義や社会主義に優っていたわけではなく、単にこの状況に対してより都合の良いシステムであっただけなのですね。

そこからさらにこの数十年間の中で、とうとう人間は一番の敵であった、戦争、貧困、病気(感染症)を克服しました。もちろんいまだに世界中では様々な問題が蔓延ってはいますが、どれも決定的なものではなく、有史以来最も平和な現在を過ごしているといっても過言ではない。

しかし、文明が発展するという本来であれば人間はどんどん幸福になっていくはずの渦中にいながら、現代を生きている我々が、中世の人々よりも幸福であるのかと言われるとどうでしょうか。想像でしかありませんが、おそらくそうでもないでしょうし、なんなら不幸になっているのではないかとすら思います。先進国の自殺率は右肩上がりである現状を見てもわかるでしょう。逆に有史以来最も自殺する人が多い時代を生きている。
今日明日のご飯に困る絶対的貧困者は過去最低に少なく、我々は間違いなく飽食の時代を生きている。にもかかわらず、現在己を貧しいと思っている相対的貧困者の数はとんでもなく多い。
それこそ中世より豪華な食事をしていることは間違い無いのに、貧しいと思っている。

人間の幸福感に絶対的な指標は関係がなく、自身が経験する過去や周囲と比較した相対値で決まる。

とすればこの終わりなきマネーゲームのような資本主義、ヒューマニズム、科学信仰はどこに向かっているのか。少なくともその先に僕たちの幸せがないことは確かです。

さらに現在世間を騒がせているAI。次はデータ革命だと言われています。
人間至上主義であったはずが、皮肉にも科学の進歩とともに人間の行動や意識は全て一定のアルゴリズムに由来しているという見方が強くなってきています。つまり、こんなにも神聖で至上の存在として祭り上げてきた人間という存在すらもただの決まったアルゴリズムに沿って動いている1動物であるということが証明されてしまう。

とすると、コンピューターなどのデータに全て置き換えることができる。
そのお試しが現在のAIの使われ方ではないでしょうか。今やみんな生成AIに恋愛相談をしたり、転職相談をしたり、髪を切るかどうかまで相談している。そしてAIは僕たちのとの膨大なやり取りから最良とされる選択肢を提示してくれる。問題なのはこれが正しいかどうかではなく、最良の選択であると疑わなくなってきていること。

そしてその考えは10年後には現実のものとなっているかもしれない。

という中でこれから人間の在り方というのは今一度問い直す必要があります。
だって今人間が家畜や道具、外の環境をどのように扱っているかを考えればデータ時代になった時に人間がどう扱われるかは目に見えるでしょう。

馬車から蒸気機関車に移動の手段が変わった時。誰1人として馬車の能力を上げようとする人はいなかった。
今犬や猫を飼っている我々ですが、彼らが愛を持って懐いてくれていると思っていますが、本当にそうなのか。
こちらの意識までは想像がついていないでしょう。ただお利口にしていればご飯が食べられて、安心して眠れる。そんな環境を提供してくれるこの主人には良い顔をしておこう。確かにそうは思ってるかもしれませんが、この飼い主がどんな思いで自分を飼っているのか、いやおそらくもはや自分が”飼われている”なんてことは思ってないんじゃないでしょうか。

今私たちはAIを使っていると認識している。でもいずれこの膨大なデータたちに知らぬ間にイニシアチブを取られて、意思決定を全てAIに任せるようになったら、その時も僕たちはAIを使っていると思っているかもしれないけれど、データ側は人間たちを飼い殺している、自分たちの都合の良いように操っていると考えているかもしれない。
そしてそれはすでに始まっているかもしれない。

そこで僕たちが人間がどのように生きていくことができるのかということを考えたくて、僕はこういった本をよく読んでいるわけなんですが、この「祈る」という行為にはさまざまな可能性が秘められている気がしました。

まだ咀嚼してきれていない部分もありますが、脱創造する、作為をなくす、自我という器を空にする。
とういことがキーワードになってきそうです。

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