こんにちは。矢野です。
昨日は僕が経営する別系列のカフェCØでハープの演奏会があったので、お手伝いに行ってきました。(半分ききたかっただけ)
過去にもチェロやバイオリンなど、クラシックの演奏会をしてきまして今回はハープ。この演奏会の日程はかなり前から決まっていたのでたまたまなのですが、現在CØのリニューアルを考えていて、今週月曜〜金曜までは準備期間とリフレッシュ期間としてお休みし、また土曜日からリニューアルオープンをします。そんなリニューアル前最終日にハープの演奏会ということで花を添えていただく形になりました。
過去のものもそうなのですが、この演奏はうちが主催しているものではなく、演奏者の方が主催してコンサートを行なっておられるのですが、今回は定員30名が即埋まって、しかも来られていた方々のなんと半数以上が関西圏外からだったということで驚きでした。すごい。
聞きながら涙されている方もいたり音楽の力を感じました。
そして一旦リニューアル前の大仕事を終えて小休憩。と言っても僕は今日はLaughterに来ていて、明日からはCØの準備。そしてまたLaughterと仕事しすぎ問題が起こっているのですが。。
さて、最近また出歩く時にはカメラを持つようにしています。
カメラを持ち歩いていると、見える景色の中でどの瞬間を切り取れば画になるか能動的に探すようになるから。
特に僕はもっぱらモノクロ写真ばかり撮っているので、陰影が美しる生える瞬間を日常的に探している。
昨日それこそCØに向かう道中、京阪電車に乗った時、ふと『電車』というストラクチャーが持つ不気味さを感じた。
電車は非常にドメスティックでありながら、さまざまなSF作品などの題材として用いられる極めて不思議な引力を持つ社会の構成物だと思う。
毎日休むことなく、決まった時間に決まった場所へ大勢の人々を運んでいる。
電車に乗り込む時、人々は電車というシステムに疑問を持つことはない。時間通りにやってくる電車に無感情に乗り込み、また降りていく。
まるで現代アルゴリズムの象徴のような乗り物ではないだろうか。
アルゴリズムと言うとSNSやAIを連想することが多いと思うが、我々はもっと以前からこの電車という乗り物によって「目的の時間通りに目的の場所に辿り着く」ということを受け入れ、植え付けられ、飼い慣らされている。
そしてこの日常に最も身近なストラクチャーには欠点がある。
その一つが『痴漢』だ。
社会悪である痴漢。個人のレベルで見れば痴漢が発生すると加害者と被害者は電車から降り、然るべき対応をすることになる。
しかし電車は止まることはない。まるでそれが社会の生命維持装置であり、動くことが生理現象であるかのように。
例えば食品会社が健康被害を出したとする。被害が出た食品が一部であっても会社の信頼はガタ落ち、生産ラインを一時停止することを求められることもある。
痴漢という行為が発生するのは他でもない電車という構造物の内で発生している。それもおそらく毎日どこかで。
なのにあくまで個人間の問題として処理され、電車が止まることはない。
ここに妙な気味悪さを感じることがある。