最近、肩こりがひどい。

Article author: 龍平矢野
Article published at: Sep 18, 2026
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こんにちは。矢野です。

肩こりがひどいです。
その度に「アメリカ人には肩こりがいない」という話を思い出します。
これどういうことかというと、日本人しか肩が凝らないということではなく、アメリカには「肩こり」を表す英語がないということらしいです。
ここから導かれる答えとして面白いのが、人間は言葉で定義ができないことを認識することができないということですね。
だから実際アメリカ人も肩が凝っているはずなんだけど肩こりを表す言葉がないから肩こりだと思ていない。

アメリカに限らずどの国にもさまざまな言語がありますよね。僕たちはそれを似たニュアンスの言葉に訳して相互にコミュニケーションを取れるようにしています。
ただ当然100%イコールなのかは確認のしようがない。あくまでニュアンスなんですよね。
性格というものは何人であっても大まかな傾向はあったとしても個人レベルでは一括りにすることはできません。日本人が真面目で几帳面だという認識は世界的にはあるかもしれないけど、個人レベルで見れば不真面目な人も大雑把な人も腐るほどいます。
でも言語は共通。言語を共有している限り、見ている景色、認識してる世界は限りなく近いものである可能性が高い。

ドイツの哲学者ハイデガーの存在と時間についての著書は超難解であることは有名です。
この難解さの一端を担っているのが、日本語訳では現存在などと訳されるようなドイツ語固有名詞にあります。特に英語で訳すと例えば著書の中ではかなり複雑な意味を含んだ「時間」についての論考が「TIME」と非常にあっさりと訳されてしまい、本来の意味を汲み取りきれないので、ドイツ語版を読むことが推奨されており、特に英語版はあまり推奨されていません。その点、日本語はかなり複雑な言語体系を有しているのでまだかなりマシなようです。それでもこの世に存在しない言葉が出てきて超難しいですが。

これらのことから人は言葉を通して世界を認識しているが、民族によって言語が違うという点を考えると、人間と一括りにしても実は見てる世界は全然違うというようなことがあるのではないだろうか。
もしそうだとするならば世界の言語の中でも特に語数が多く、複雑な日本語を操る日本人は人間の中でもより微細な部分まで世界を知覚できる素養を持ち合わせているのではないだろうか。
これこそが禅、侘び寂び、に代表される日本固有の世界に誇る美的感覚を下支えしている財産なのではないだろうか。
という問いに近い気付きも得られる。

「環世界」と呼ばれる生物によって知覚している世界が違うという概念があるが、ヒューマニズムがあまりに進み、人間とその他の生物を無意識に分別している中で、人間自体も一動物に過ぎないという考えに改めて立ち返り、人間を一括りにせず一個体ごと、ある一定の集団ごとで分解して考えてみるとまた面白い発見がありそうです。

というかそうしないと、今までの人間史では言っても遺伝子の微細な変化の延長で有機体という範疇で進化してきたに過ぎないところから(バナナと50%しか違わないのは有名)、現在進行しているAIに代表されるヒューマノイドやナノボットによって無機体へと成り代わろうとしているとんでもない変化に対して対応していくことは到底できないのではないでしょうか。
この新人類(もはや人と言っていいのかは分からない)は全く違う環世界を有しているのは間違いない。人間がその他の動物にはない認知機能や意識を有しているように。
現在人間がその他の動物をどのように扱っているかを考えると、その時僕たち旧人類が新人類からどのように扱われるかは火を見るより明らかで、もはやこれはSFの世界では無くなっている。

なんていうディストピアを予見しながらもどこかワクワクしています。

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